福井  福ふくガイド http://www.fuku2.co.jp/  福井
敦賀市散策 旅館・民宿・観光ガイド

敦賀観光案内所    TEL 0770-21-8686

敦賀観光協会(社) TEL 0770-22-8167

素足で歩きたい、越前若狭の港町、敦賀の旅館、民宿ガイド。

 

 陸海ともに古くから交通の要所であった敦賀市。現在も敦賀港には多くの船舶が行き来し、港町ならではのロマンチックな風情が楽しめます。市内の見どころとしては、金ヶ崎緑地公園を中心に、赤レンガ倉庫、敦賀ムゼウム、敦賀鉄道資料館、金崎宮などがあります。また敦賀半島の山々の緑と真っ青な海が見事なコントラストを描く敦賀湾には、渡し船で行く海水浴場、水島をはじめ、気比の松原海水浴場、手の浦海水浴場など、人気の海水浴場がたくさんあります。年間を通じて美味しいお魚料理が味わえ、冬は敦賀ふぐやかに料理も楽しめます。

金ヶ崎緑地と赤レンガ倉庫

水島海水浴場の様子

敦賀の筏釣りで黒鯛、真鯛、カワハギ、アジ、アオリイカ ⇒ 釣筏やまもと

水島行き浦底乗船場近く、さざえヶ岳登山のお宿 ⇒ 浦底観光協会

味一旅館 (敦賀半島 浦底)

敦賀の新鮮な魚介と朝焼けに浮かぶ水島の眺め。水島行き浦底乗船場は、宿の目の前です。さざえヶ岳登山のお客様にも人気の宿です。

敦賀ふぐの宿なかい (敦賀半島 色浜)

敦賀の新鮮な魚介と朝焼けに浮かぶ水島の眺め。当館目の前より水島行きの渡し船が出ます。冬は敦賀ふぐが堪能出来ます。

交通のご案内

北陸自動車道福井ICから敦賀ICまで、北陸自動車道で約51q

JR福井駅からJR敦賀駅まで、国道8号線〜塚原〜桜橋交差点〜大比田を経由して約56q

JR福井駅からJR敦賀駅まで、国道8号線〜国道365号線〜国道476号線を経由して約60q

JR福井駅からJR敦賀駅まで、越前町梅浦を経由して国道305号線としおかぜラインで約72q

北陸自動車道敦賀ICからJR敦賀駅まで約2、5q

JR敦賀駅から赤レンガ倉庫まで約2、1q、金ヶ崎緑地まで約2、2q

JR敦賀駅から気比神宮まで約1q、敦賀市立博物館まで約1、7q、気比の松原まで約3q

JR敦賀駅から手の浦まで約11、7q、色浜まで約13、7q、浦底まで約15q

JR敦賀駅から立石まで約20、4q、白木まで約25、6q

JR敦賀駅から敦賀フェリーターミナルまで金ヶ崎緑地経由で約4、7q

敦賀ICから敦賀フェリーターミナルまで国道8号線〜敦賀新港口を経由で約5、2q

敦賀ICから金ヶ崎緑地、赤レンガ倉庫まで約3、5q

敦賀ICから気比の松原まで気比神宮経由で約4、5q、国道27号線若葉交差点経由で約6、8q

敦賀ICから手の浦まで約13、3q、色浜まで約15、2q、浦底まで約16、4q

敦賀ICから美浜町の水晶浜まで気比の松原、縄間T字路、黒背峠トンネルを経由して約13、8q

敦賀ICから美浜町の水晶浜まで国道27号線の若葉交差点〜佐田を経由して約17、5q

新幹線敦賀駅

 新幹線敦賀駅は「空にうかぶ〜自然に囲まれ、港を望む駅」をコンセプトに設計され、駅舎の高さは12階建てビルに相当する37mで、国内の整備新幹線で一番高い場所にある駅として脚光を浴びています。3階が新幹線ホーム、2階は改札口とJR線及びハピライン福井への乗換えコンコース、1階は京都・大阪方面に接続する特急サンダーバード、米原・名古屋方面と接続する特急しらさぎの専用発着ホームになっています。敦賀駅西口(まちなみ口)を出ると飲食、物販、図書館が入るotta、芝生広場、ビジネスホテル、立体駐車場などがあります。西口正面の駅前通りには気比神宮や敦賀市立博物館などに続く商店街があり、敦賀の町並みが楽しめます。気比神宮の先には敦賀湾の港風景を楽しめる金ヶ崎緑地公園があり、敦賀港の歴史を象徴する敦賀赤レンガ倉庫や鉄道の歴史遺産でもある旧敦賀駅駅舎などがあります。敦賀赤レンガ倉庫内には明治後期〜昭和初期の敦賀の街並みを80分の1サイズで再現した巨大ジオラマがあり、映像とともに動くジオラマを見学出来ます。気比神宮、金ヶ崎公園、敦賀市立博物館へは、敦賀駅西口バス乗り場から発着する敦賀ぐるっと周遊バスが便利です。新幹線駅舎側の敦賀駅東口(やまなみ口)にはお店等はありませんが、北陸自動車道の敦賀インターから約1、5qの位置に有り高速道路からの敦賀駅の玄関口の役割を果たしています。

水島 水島海水浴場の様子

 敦賀半島の先端に浮かぶ小さな島。海水の透明度が高く、上陸してるだけでも幸せな気分。夏の海水浴シーズンは色浜と浦底から水島行きの渡し船が運航していて、多くの海水浴客で賑わいます。

金ヶ崎緑地 冬のイルミネーション ミライエ の様子

 港の雰囲気が楽しめる芝生の公園です。ボードウォークで潮風に当たりながらロマンチックな敦賀の気分を味わって下さい。周辺には旧敦賀港駅舎や赤レンガ倉庫、1920年にシベリアで救出されたポーランド孤児、1940年にはナチスドイツの手から逃れたユダヤ人難民が、リトアニア・カウナスの領事代理、杉原千畝が発給した“命のビザ”によって、敦賀港に上陸した当時の資料を展示している「人道の港 敦賀ムゼウム」などがあります。

人道の港 敦賀ムゼウム

 金ヶ崎緑地公園の北側に建つヨーロッパ風建物群は、令和2年11月3日にリニューアルオープンした「人道の港敦賀ムゼウム」の建物です。敦賀港は、明治から昭和初期にかけて、ヨーロッパとの交通の拠点としての役割を担い、1920年代にポーランド孤児、1940年代に「命のビザ」を携えたユダヤ難民が上陸した日本で唯一の港です。館内では、数々の苦難を乗り越えて敦賀に降り立ったポーランド孤児とユダヤ難民の史実を中心に、当時の敦賀市民の証言やエピソードのほか、今も続く関係者との心温まる交流を紹介し、命の大切さと平和の尊さを発信しています。※「ムゼウム」はポーランド語で「資料館」を意味します。
★敦賀ムゼウム入館料 大人1人500円 小学生以下1人300円
★入館時間 9:00〜17:00 ※最終入館は16:30
★休館日 毎週水曜日(祝日の場合その翌日)年末年始

金ヶ崎城跡

 金ヶ崎城は敦賀湾に突き出た丘の上に築かれた中世の城である。周囲は埋め立てられたが、北、西、南の三方を海の囲まれ、東に連接する天筒山城に続く尾根にも要客(城戸)を設けた難攻不落の城であった。ここでは二度、歴史を動かす合戦が行われた。
一度目は南北朝時代、二年あまりにわたる金ヶ崎城争奪戦である。1336年(建武3/延元元)、足利尊氏が京で光明天皇(北朝)を擁立して室町幕府を開創し、後醍醐天皇は吉野に下がる(南朝)。そして新田義貞は後醍醐天皇の皇子尊良親王恒良親王とともに金ヶ崎城に籠城した。1337年(建武4/延元2)正月、幕府軍の主力を投入した攻撃が開始された。義貞は城を脱出し、杣山(そまやま)城(現南越前町)の軍勢を率いて幕府軍を攻撃したが、敗れて撤退。3月、金ヶ崎城は落ち、尊良親王と義貞の子孫、義顕は自害、恒良親王も捕らえられ城は幕府軍に接収された。1338年(暦応元/延元3)義貞らの反撃により、金ヶ崎城を奪還。越前は南朝優勢となる。しかし長期戦の末、翌年幕府軍が取り戻し、その後南朝群は奪い返すことが出来なかった。
二度目は戦国時代、「金ヶ崎の退き口」と呼ばれる織田信長の撤退戦である。1570年(元亀元)信長は京から近江・若狭を経て越前に侵攻した。激戦の末、天筒山城を陥落させ、金ヶ崎城の朝倉景恒に降伏を迫り、城を接収した。信長は城を修築し朝倉攻略の拠点とする構えを見せたが、近江の浅井長政が反旗を翻して越前国境に迫っていると知り、越前敦賀から朽木を越えて(朽木越え)京へ逃げ延びた。信長はわずか10人ほどの供と京に帰還したという。また後世、信長の妹で長政の妻となっていたお市が両端を紐で固く結んだ小豆袋を届けて、危機を知らせたという逸話も生まれた。信長軍には後の天下人となる木下(豊臣)秀吉、徳川家康、本能寺の変で信長を斃す(たおす)明智光秀もいた。信長とともに彼らも九死に一生を得た。信長が再び敦賀に来るのは、1573年(元正元)朝倉を滅ぼす年である。

金ヶ崎の退き口〜姉川の戦い〜賤ヶ岳の戦い

 信長は、古くから浅井氏と同盟関係にあった越前の朝倉氏を攻めるためにも、浅井を味方につけておく必要があった。信長の妹、お市の方は、20歳のころ、信長の命により近江小谷城主浅井長政のもとに嫁ぐ。信長は、浅井長政が動かないと見越して朝倉攻めを敢行。しかし朝倉氏と長年の同盟の義を重んじた長政が出陣。越前に攻め入った織田軍の後方を抑え、挟み撃ちにするかたちとなった。それを知ったお市の方は、両端を結んだ小豆袋を信長に送りつけたとされている。「兄信長が袋の鼠になっている」という暗号だった。信長は、すぐさま全軍撤退させ、命がけで逃げ帰る。 その後、怒った信長は、姉川の戦いののち、小谷城を攻囲し、浅井長政を自害に追い込む。お市の方は、兄信長を助けたことで、夫長政を死に追いやることになった。長政とお市の方とのあいだには二男三女の子がいた。信長は、お市の方、茶々、初、江の3人の娘は助けさせ、引き取る。本能寺の変のあと、明智光秀討伐を陣頭指揮した羽柴秀吉が、織田家相続問題を決める清洲会議のころから台頭してきた。この秀吉を嫌っていたお市の方は、織田家筆頭家老の柴田勝家のもとに再嫁する。陰で動いたのは、信長の三男信孝。信長の妹を勝家に嫁がせることで、味方する武将を増やしたかったのだ。お市の方も、「秀吉に天下をとらせないためなら」とうなずいた。勝家が拠る越前北庄城は雪深く、冬のあいだ出陣できない。その隙をついて秀吉は、いちどは勝家に譲った長浜城を奪い、戦の準備を固めた。そして春になって勝家が出陣してきたところを、賤ヶ岳の戦いで撃破する。敗れた勝家は、北庄城に逃げ帰るが、羽柴軍に攻囲され、自害を覚悟する。勝家はお市の方に「3人の娘と逃げろ」と言うが、お市の方は納得しない。攻める側の秀吉も、お市の方に城から出るように説得したが出るはずがない。信長の妹としてのプライドが許せなかったのだ。なにより秀吉を嫌っていた。お市の方は、3人の娘を逃がしたうえで勝家とともに自害して果てる。お市の方、37歳くらいだった。

金崎宮の花換まつり

花換まつりは、金崎宮へ桜見物に訪れた男女が「花換えましょう」と声をかけあい、桜の小枝を交換することで思いを伝えたといわれる、ロマンチックなお祭りです。「花換え」をしたカップルは将来幸せに恵まれるといわれています。

天筒山(てづつ山)と天筒展望広場

 天筒山の山頂展望台からは西側に敦賀市街地、敦賀湾、敦賀半島、気比の松原、敦賀市の最高峰である野坂岳(標高913m)、東側には平成24年7月3日にラムサール条約に登録された中池見湿地(約25ha)や、北陸自動車道の敦賀トンネルなどをパノラマ感覚で眺めることができます。展望広場へは天筒入口から向かうコース(展望台までコンクリートで舗装されてる約1、2qの遊歩道)、中池見湿地内の古民家の建物横から向かうコース(傾斜も緩やかで歩きやすい展望台まで約1、4qの自然歩道)、金崎宮社務所横から上がるコース(最初に急な階段があります)、金ヶ崎宮の奥にある月見御殿を経由して展望台に向かうコース(尾根伝いにコンクリート道を歩くコースで途中階段も多い約1、6qのロングコース)があります。天筒入口からのコースは、市民のハイキングコースとして一般的なコースですが、中池見湿地からのコースも、緑に覆われた自然歩道で、途中、休憩場やトイレもあり、歩きやすく整備されています。中池見湿地からのコース途中には、戦国時代に金ヶ崎城の枝城であった天筒山城(てづつやまじょう)の跡地であったことを示す説明プレートや、弥生時代の見張り台をもった村、奈良時代のお堂、平安時代末期の経塚などの遺跡が見つかった舞崎遺跡の説明プレートなどが設置されていて、この山が長い歴史と共にあったことを思い出させてくれます。

交通のご案内

JR敦賀駅から天筒町の天筒山登り口まで約1、4q

敦賀ICから天筒町の天筒山登り口まで、余座〜天筒トンネルを経由して約3q

野坂山(野坂岳)

 通称野坂山と呼ばれている野坂岳(のさかだけ)は、敦賀市の最高峰であり敦賀三山(野坂岳、西方ヶ岳、岩籠山)の一つです。標高914m(敦賀市の〒番号も914)の野坂岳山頂へは、麓にある野坂いこいの森キャンプ場の駐車場に車を停めて野坂山登山口から登ります。いこいの森キャンプ場の登山口から野坂岳山頂までの距離は往復約6、5qで、山頂までの所要時間は登りが約2時間30分、下りが約1時間30分が目安になっています。野坂岳山頂へは、水場のある栃の木地蔵、敦賀の街並みと敦賀湾が見渡せる展望スポット、巨石の上から展望が楽しめる行者岩、休憩ベンチが設置されてる一の岳、尾根伝いを歩きながらブナ林や紅葉が楽しめる二の岳〜三の岳を進みながら登って行きます。山頂は草原の広場になっていって360度の展望を楽しみながらゆったり休憩する事が出来ます。JR小浜線の粟野駅から野坂いこいの森キャンプ場にある野坂山登山口までは片道2、3qあるので、列車利用で野坂山へ来られる方はご注意下さい。

交通のご案内

敦賀ICから国道27号線〜岡山1丁目西〜JR粟野駅を経由して、野坂いこいの森キャンプ場まで約10、8q

JR敦賀駅から国道8号線〜岡山1丁目西〜JR粟野駅を経由して、野坂いこいの森キャンプ場まで約9、7q

JR小浜線の粟野駅から野坂いこいの森キャンプ場の野坂山登山口まで約2、3q

敦賀歴史散策(石田三成とともに戦った大谷吉継)

 歴史に残る二度の戦が繰り広げられた金ヶ崎城。石碑などで当時の面影を残しているのは実際にここで行われた南北朝時代の幕府軍と新田義貞の戦い(1337)の歴史の跡。時は進み、それから約250年後、豊臣秀吉の時代(1583〜)敦賀城主となって城下の整備と構築を行ったのが大谷吉継。石田三成と大谷吉継は、ともに豊臣政権時代の中枢を担った二人で、柴田勝家との賤ヶ岳の戦いから家康との関ヶ原の戦いまで行動を共にした盟友です。吉継は重い病を抱えながらも、無謀と知りつつ三成の挙兵に参加。関ヶ原の戦いでは奮戦するも、小早川秀秋の裏切りにより壊滅し、自刃しました。敦賀市の気比神宮近くにある 永賞寺は、大谷吉継が 生前より菩提寺としていたとされるお寺です。慶長14年(1609)造立の大谷吉継の供養塔と言い伝えられている多重塔が本堂の前に設置されていて、正面には敦賀城主、大谷吉継公菩提所と書かれた立派な看板が置かれています。

 
《大谷吉継と石田三成》
石田三成は、安土桃山時代の武将・大名で豊臣秀吉に仕え、行政・外交・太閤検地などに卓越した能力を発揮し、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人。秀吉が柴田勝家と対峙した賤ヶ岳の戦い(天正11年(1583)4月、現:滋賀県長浜市)の前においては、柴田軍の動向を探る偵察役を務めます。この時、大谷吉継も、長浜城主・柴田勝豊を調略して内応(敵陣営の武将や領主に秘密裏に接触し、味方を裏切ってこちらの味方をすることを約束させる諜報・心理戦術)させるなど、石田三成らとともに柴田軍1万5000人相手に無類の働きをしました。秀吉政権下での石田三成は、各大名との間を親密な信頼関係に築いたり、地方平定の為の戦局を支える実務の中核として重要な役割を果たした人物です。

天正17年(1589)、大谷吉継は、秀吉から越前国敦賀郡2万余石を与えられ、敦賀城主となります。吉継は蜂屋頼隆の築いた敦賀城(現在の敦賀西小学校付近)を改修したと伝わりますが、吉継の前は豊臣秀勝が城主になっており、天守は秀勝時代に完成していた説もあります。笙ノ川・児屋ノ川の二川を境界として町立てを行い、町割を川西・川中・川東の三町に改めました。天正18年(1590)、吉継は小田原征伐に従軍したのち、続いて奥州仕置にも従軍し、出羽国の検地を担当。検地においては、配下の代官が抵抗する農民を斬ったことが発端となり一揆が発生しますが、上杉景勝の支援を要請し、鎮圧。帰還後、南条郡・丹生郡・今立郡の村々六三か村、2万6、944石を加増され、「敦賀5万石」を領しました。

信長の死後、日本統一を果たした秀吉は、文禄元年(1592)3月、朝鮮出兵(文禄の役)を決定します。
文禄の役に際しては、加藤清正・島津義弘・福島正則ら西軍の部隊が、直接朝鮮半島へ渡航する部隊として編成されます。出兵総数は約15万8千人にのぼり、石田三成は大谷吉継らとともに船奉行に任じられ、上陸部隊の艦船を集め、部隊を輸送する体制を整えます。三成らは釜山に上陸し、その後7月16日に漢城へ到着。まず倉庫を巡察して兵糧や物資の確保に努めます。しかし、当時すでに釜山と漢城の間では朝鮮義勇軍が補給路を脅かしており、北方の平壌には明軍の大部隊が迫っていました。三成は、釜山から漢城へと移動する途中で目にした荒廃した農村の様子から、いずれ日本軍が深刻な飢餓に見舞われる可能性を予見、三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行は、たとえ局地戦で勝利を重ねたとしても、兵糧の維持が困難であり、このまま戦闘を継続すれば補給が尽き、日本軍は壊滅の危機に瀕する「勝ち申し候うちに、日本人は無人に罷りなり候」との深刻な懸念を表明します。文禄2年(1593)1月、三成の予見どおり、明軍の平壌攻撃などに寒気と兵糧不足に苦しんでいた行長は持ちこたえられず、漢城(現・ソウル)へ退却。この結果、日本軍の前線は総崩れとなり、迫り来る明軍をどこで迎え撃つかをめぐって、小早川隆景(小早川隆景は毛利元就の三男で、毛利両川の一人として毛利家を支えた智将。実子がいなかったため豊臣秀吉の養子・秀秋を小早川家の養子として迎えました。養子・秀秋は関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍の勝利を決定づけたことで知られています)ら諸将と、石田三成ら奉行衆との間で意見が対立します。

小早川隆景は、自らが守備を任され、秀吉からも死守を命じられていた要衝・開城において迎撃すべきと主張。一方、石田三成は、大河を背にした開城では補給遮断による不利は避けられないとし、戦線を漢城まで後退させ、全軍を集結させた上で迎撃すべきだと提案しますが、三成の戦略は占領地を無血撤退することを意味し、隆景は激しく反発。隆景は「奉行衆は臆病風に吹かれたのか」「兵糧が尽きたならば、砂を食ってでも戦うべきだ」とまで語気を強めたといわれます。加藤清正・加藤光泰らも、占領地の放棄に難色を示しました。

最終的には大谷吉継・前野長康の仲裁により、小早川隆景も撤兵に同意。日本軍は漢城に集結し、文禄2年(1593)1月26日、三成は小早川隆景・立花宗茂・吉川広家・黒田長政らとともに、漢城北方の碧蹄において明軍を迎撃(碧蹄館の戦い)、この戦いで日本軍は明軍を撃退し、局地的な勝利を収めます。その後、秀吉は名護屋で明使節に講和条件を提示。この時の七箇条には、秀吉自らの署名に続き、石田三成・増田長盛・大谷吉継・小西行長の副署が記されていました。

文禄4年(1595)、豊臣秀吉の命により、甥の豊臣秀次が謀反の嫌疑で糾問され、高野山にて切腹させられます。事件後、秀次の旧領のうち近江国内の7万石が石田三成の代官地となり、また、三成は近江(滋賀県)佐和山19万4,000石の所領を秀吉から与えられ、正式に佐和山城主となります。佐和山城は畿内と東国を結ぶ要衝であり、軍事・政治両面で重要な拠点であったため、三成の地位は名実ともに豊臣政権の中枢に数えられるものとなりました。※秀吉の弟、秀長が生きていたら、秀次やその一族の悲しい死は防げたと思うと無念。

秀吉は既に齢60を超え、幼少の豊臣秀頼を支える体制の構築が急務となります。五奉行のみでは政権維持に不安があると考えた秀吉は、文禄4年(1595)8月、徳川家康・前田利家・毛利輝元・小早川隆景・宇喜多秀家の5名を政治上の最高顧問として任命。これが「五大老」であり、浅野長政、石田三成、前田玄以、増田長盛、長束正家の「五奉行」とともに政務を合議制で運営する体制が敷かれます。

慶長元年(1596年)5月、秀吉は明使節一行から国書を受け取りますが、そこに秀吉が提示していた講和条件の旨が一切触れられず、「秀吉を日本国王に封ずる」と記されていたことに激怒。秀吉はこの書状をもって講和が破談となったと判断します。慶長2年(1597)2月21日、再出兵のための編成が発表され、総勢14万1500人の大軍が動員されました。この出兵(慶長の役)では、前回(文禄の役)のように明国までの侵攻を掲げた大規模戦略は採用されず、秀吉が提示していた講和条件のうち「朝鮮南部四道の割譲」を実力行使によって実現させることが主目的とされた。このため、諸将の間で戦意は高揚せず、全軍の指揮も上がらなかったとされます。この頃から、冷静な戦術分析が得意な三成と、武断派(秀吉の配下で軍務を担当した加藤清正や福島正則ら諸将の総称)との対立関係が始まります。

慶長2年(1597)12月、朝鮮に渡っていた小早川秀秋(1582年〜1602年。豊臣秀吉の養子を経て小早川隆景の養子となる。のちに「関ヶ原の戦い」で西軍から東軍へ寝返り、徳川家康の天下取りに決定的な役割を果たしたのち、岡山城で享年21歳で若くして死去)は、その行動に問題があったとして帰国を命じられ、翌慶長3年(1598)4月に伏見城で秀吉に謁見、この際、秀吉は秀秋の旧領である筑前一国と筑後二郡(現・福岡県)を没収し、秀秋は越前北ノ庄(現・福井県福井市)へ移封されます。

慶長3年(1598年)重い病に伏し、8月10日頃からは病勢がさらに進行した豊臣秀吉は、8月18日、朝鮮出兵の途上にして伏見城にて逝去。明軍と和平交渉を進め、全軍の撤退を図る方針が決定され、現地の在番諸将に正確な命令を伝達するための通達と共に、三成ら五奉行の連署による「和平条件に関する覚書」が携行されます。相手に対し複数の選択肢が柔軟に提示した交渉姿勢には、状況を見極めつつ和を重んじる三成らの慎重な外交姿勢が垣間見えます。

秀吉の死後、豊臣政権の政治体制は、秀吉の独裁から幼少の後継者・豊臣秀頼を、五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)と、五奉行(石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以)によって支える体制へと移行します。若くして豊臣秀吉に仕えてきた大谷吉継は、行政能力や戦場での軍功を高く評価され、五奉行のひとりとして重要な活躍をし、一時は五奉行に次ぐ重責を担うこともありました。しかし、秀吉死後の政治抗争の過程でこの体制は徐々に崩壊してします。

慶長5年(1600)10月21日の関ヶ原での戦いは、豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の政争に端を発し、それらを利用した徳川家康が総大将となり福島正則・黒田長政らを中心に構成された東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が、各地で戦闘を繰り広げた戦いです。1600年、石田三成は徳川家康討伐を決意し、大谷吉継に協力を求めました。しかし、吉継は「勝てる見込みはない」と冷静に三成をいさめますが、最終的には病身を押して三成と共に出陣。開戦直後は東軍の藤堂高虎・京極高知軍に奮戦しましたが、小早川秀秋の裏切り(この秀秋の離反については、当初から付家老の稲葉正成・平岡頼勝とその頼勝の縁戚関係である東軍の黒田長政が中心となって調略が行われていたとされる。戦いが始まると、秀秋は東西両軍が激突するなか、松尾山から傍観していた。秀秋は戦いの開始前から家康に西軍を離反することを浅野長政を通じて伝えていたとされ、東軍から奥平貞治や大久保猪之助が目付として派遣されている。家康はたびたび使者を送ったにもかかわらず、傍観し続ける秀秋に苛立って、秀秋の陣へ鉄砲を撃ちかけたとされる。これにより、秀秋は西軍を裏切ることを決意したと言われています)を機に、脇坂・朽木らも東軍に寝返り大谷軍に突撃。大谷軍は四方から敵に攻め込まれ、ついに力尽きます。混戦の中、吉継は家臣に介錯を命じて自刃。吉継の首は側近である湯浅五助の手により関ヶ原に埋められたと『常山紀談』に記されています。戦後、石田三成も捕らえられ六条河原で斬首されました。
ハンガリー女子が語る関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いの結果、勝者である徳川家康は強大な権力を手に入れ、秀吉没後の豊臣政権を構成していた五大老・五奉行体制は崩壊。家康の権力掌握は徳川氏を中心とする江戸幕府の成立に繋がり、幕藩体制確立への道筋が開かれることとなります。

玄蕃尾城跡

 玄蕃尾城は、1582年6月の本能寺の変の後、天正11年(1583年)4月に起こった賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで、秀吉と戦うため柴田勝家が本陣を置いた山城です。平成11年(1999年)7月13日に、玄藩尾城(内中尾山城)跡として国の史跡に指定され、2017年(平成29年)4月6日には、続日本100名城に選定されました。賤ヶ岳の戦いの為だけに作られ、実際には使われず長年放置されていた山城の為、空堀や土塁の遺構がそのまま残されています。玄蕃尾城という名前は、柴田方の武将・佐久間玄蕃(さくまげんば)が、山頂のなだらかな尾根道を切り開いたと伝わることから、玄蕃が開いた尾根道というルーツがあるそうです。玄蕃尾城跡への林道入り口がある柳ヶ瀬トンネルの福井県側入り口へは、敦賀市疋田交差点から国号8号線〜敦賀柳ヶ瀬線の県道140号を通り、刀根方面に進みます。柳ヶ瀬トンネルの福井県側入り口にある玄蕃尾城跡への案内看板から玄蕃尾城跡への登山口がある駐車場まで林道で約1、9kmです。

交通のご案内

敦賀ICから国道8号線〜疋田〜県道140号を経由して、柳ヶ瀬トンネル福井県側入口まで約11、9q

柳ヶ瀬トンネル福井県側入り口の玄蕃尾城案内看板より林道で玄蕃尾城登山口まで約1、9q

中池見湿地

 2012年にラムサール条約湿地に登録された中池見湿地は、市街地のほど近く、周りを山に囲まれた25ヘクタールほどの小さな湿地です。たくさんの生き物の気配であふれ、田んぼをのぞくとタニシやメダカが、畦道や草原の中を流れる水路の小道を歩くとバッタやカエルが跳び出てきます。季節ごとに変化する美しさと豊かな自然が楽しめます。敷地内にある古民家の隣には天筒山(てづつやま)展望広場への登山口があり、約20分で展望広場まで行けます。

交通のご案内

JR敦賀駅から中池見湿地駐車場まで約2、1q

敦賀ICから中池見湿地駐車場まで約2、3q

敦賀市立博物館

 重要文化財である敦賀市立博物館の建物は、昭和2年に二代目大和田荘七によって建てられた大和田銀行本店を活用したものです。重厚な造りの建物内は、1Fは大和田銀行時代のレトロな窓口カウンターとカウンター内に敦賀港の歴史資料を展示、2Fには古代から近世の敦賀の歴史を紹介する展示室と復元された貴賓室、3階には建物内で実際に設置されていた北陸では珍しかったエレベーターや講堂ステージ跡、地下には当時のレストランや水洗トイレなどが残されていて昭和初期の面影を感じることが出来ます。博物館前の細い路地は、江戸時代、敦賀三十六町と呼ばれた敦賀湊の町の中心部を通っていた通りで、現在は博物館通りと名付けられ、道路の石畳化や電線の地中化などにより、街中の新たな観光ルートとして整備を目指しています。
★〒914-0062 福井県敦賀市相生町7番8号 TEL 0770-25-7033
★入館料 一般300円 高校生以下無料
★休館日 毎週月曜日(祝日の場合その翌日)年末年始

氣比神宮 敦賀祭り 山車巡行の様子

 敦賀市街地のほぼ中心にある氣比神宮は、越前一の宮、北陸道の総鎮守とも称される古社です。氣比神宮の象徴でもある真っ赤な大鳥居は、木造としては、「広島・厳島神社」「奈良・春日大社」と並ぶ「日本三大木造大鳥居」のひとつで、国の重要文化財に指定されています。氣比神宮の例祭(れいさい)は、9月2日宵宮祭、3日神幸祭、4日例大祭、5日から10日まで後祭、15日の月次祭をもって終わる気比の長祭と称され、俗に「けえさんまつり」とも呼ばれています。この期間中の9月1日から4日まで開催される敦賀まつりは、氣比神宮周辺の商店街に多くの屋台や商店が並び、氣比神宮内の敷地にも屋台やお化け屋敷などの見世物が設置され、県内はもとより県外からも多くの人々が訪れます。2日の宵山祭は例祭の前夜祭にあたり、宵山という山車の上で、子供達が踊りを奉納し、笛や太鼓などの賑やかなお囃子と共に市内を巡行します。3日の御鳳輦(ごほうれん)は、氣比神宮の御神体である仲哀天皇を祀ったお神輿で、菊花の紋章入りの錦旗を先頭に、烏帽子(えぼし)、護衛の直垂の衛士(ひたたれのえじ)、甲冑をまとった武士の犬神人(つるめそ)、神馬に乗った神官の神職(しんしょく)、稚児、楽人を従えて、雅楽が奏でられるなか、氏子達と共に古式ゆかしく市内を巡行します。4日の例大祭では、戦国時代の合戦における武将の勇姿を表現した6基の山車が市内を巡行し、最後は氣比神宮の大鳥居の前に総揃いし、祭りのクライマックスを迎えます。

気比の松原 敦賀花火ととうろう流しの様子

 水の澄んだ敦賀湾に白砂青松が美しく映える敦賀のシンボルである気比の松原は、三保の松原・虹の松原とともに日本三大松原の一つで、夏は海水浴のお客さんたちで賑わいます。

手の浦海水浴場

 気比の松原と敦賀半島先端の立石岬のちょうど中間に位置する白砂とエメラルドグリーンの海が美しい海水浴場。沖合いには敦賀ふぐの養殖筏が並び、イカダ釣りやカセ釣りの釣り人にも人気があるエリアです。

旧北陸トンネル廃線跡

 北陸トンネルが完成する昭和38年まで、北陸本線(明治29年に開通)の敦賀から今庄間は、敦賀〜葉原〜杉津〜山中〜大桐を経て、今庄へ通じるルートに線路が敷かれていました。トンネルの完成後、そのルートは廃線になり、当時、列車が通過したトンネル(葉原トンネルや山中トンネルなど)も含め、現在、県道207号線として利用されています。

池河内湿原

周囲を低山群に囲まれた、南北約500m、東西約150m、面積約4haの範囲に広がる湿原です。周辺からの湧水や周囲から流れ込む水によって潤されています湿原内には木道が施設されていて、動植物の保護管理、観察が出来るようになっています。

衣掛山

 衣掛山と書いて「きぬかけやま」と読みます。国道27号線の岡山1丁目西交差点から約1、1qの位置にある敦賀工業高校から住宅地に入ると堂第一公園があり、その公園隣にある堂ふれあい会館に約3台分の駐車スペースがあります。そこへ車を停めて徒歩約5分、JR小浜線のガード下をくぐると衣掛山の登山口があります。登山道は地元の人たちによって綺麗に整備されていて安心して山に登れます。標高181mの低山ですが途中、舞鶴若狭自動車道の敦賀衣掛大橋の真下をくぐる地点では、新しく整備された北陸新幹線の敦賀駅の全景や敦賀湾を眺めることが出来ます。また衣掛山と言う名前は、源義経にまつわる伝説に由来してるそうです。鎌倉時代、源頼朝に追われた義経・弁慶一行は京から奥州へ落ちのびる道中、道口の関所を迂回。抜け道とした衣掛山で休息し、待つの枝に着物を掛けたと伝えられています。

黒河川

 黒河川と書いて「くろこがわ」と読みます。上流には川遊びやキャンプが出来る静かなせせらぎがあり、夏には地元の家族連れなどが自然を身近に楽しめる場所として利用しています。

疋田舟川

 江戸時代後期に、日本海を経由して運ばれた莫大な物資を敦賀港から京都へ送るために設けられた運河の面影が残る町、疋田は鉄道ファンにも人気があるエリアです。

新疋田駅

 全国の鉄道ファンが注目を集める新疋田駅。敦賀市の中心部から約5km、国道161号線沿いにあるJR新疋田駅は、美しい山々に囲まれ、緩やかなカーブを描いた長いホームが印象的な美しい駅です。周辺には鳩原ループ線をはじめ、新疋田駅〜敦賀駅間にはいくつかの鉄道写真撮影の名所があり、カメラを構えるファンの姿もよく見られます。駅舎内には、鉄道ファンによって撮影されたと思われる多数の写真や思い出ノートなどが設置されていて、鉄度マニアならずとも旅情気分を味わえます。

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