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福井県丸岡町 称念寺

〒910-0383 福井県坂井市丸岡町長崎19-17

TEL 0776-66-3675

南北朝時代の英雄、新田義貞公の墓所菩提所である称念寺

 

 令和2年の大河ドラマ、「麒麟がくる」で、明智光秀と福井県の称念寺の関係が、脚光を浴びるようになりました。美濃を追われ、牢人となった明智光秀は、戦国大名、朝倉義景に仕えることを目的に越前にやって来ますが、義景に会えるまでの約10年間は、称念寺の近くで、朝倉氏の家臣に仕えながら、妻、煕子と一緒に暮らしていたようです。南北朝時代の英雄、新田義貞公の公墓所があることでも知られている称念寺ですが、境内を歩いてみて南北朝から江戸時代までの歴史感に触れてみるのも楽しいです。

称念寺の様子 丸岡町TOP

新田義貞と称念寺

 新田義貞は鎌倉時代末から南北朝時代の武将。1333年、足利家とともに挙兵し鎌倉を攻め落とす大手柄を立てます。1335年には、後醍醐天皇(南朝)側の事実上の総大将として、後醍醐天皇に背いた足利尊氏と戦い、一時は尊氏を九州に追い落としますが、翌年、後醍醐天皇が勢力を盛り返した尊氏側につくと足利軍と再び戦う事になります。劣勢のなか勢力回復を目指す義貞は、越前(福井県)に向かい北朝の勢力と戦いますが、最終的には1338年7月、藤島の戦いで矢を浴びて討ち死にします。まだ38歳の若さでした。称念寺は、戦士した新田義貞公が葬られている公墓所として知られています。

明智光秀と称念寺

 身分が高いとは言えない美濃の明智家に生まれ、勇ましい性格と優れた知力を美濃を牛耳る斉藤道三に見出され、道三の家臣として重用されましたが、主君として付き添った道三が、道三の長男の義龍に討たれると明智城を攻め落とされ、美濃を追われる牢人となります(牢人とは主家を去って、又は失い俸禄を失った者をいう。 室町時代から江戸時代にかけての主従関係における武士のみに当てられる、いわば狭義の身分語。 江戸時代になり戦火が収まると、改易などにより各地を流浪する牢人が急増した)。戦国大名、朝倉義景に仕えることを目指して越前(福井県)に来ますが、牢人の身であったことも影響してか、朝倉義景の家臣としての重要な位置にはいなかったようです。約10年間、一乗谷から遠く離れた旧北国街道沿いにあった称念寺の周辺に住み、称念寺近くに舟寄館を構えていた朝倉氏の家臣、黒坂備中守に仕えていたとあります。称念寺は全国有数の時宗(時宗は鎌倉時代に生まれた浄土宗の宗派の一つ)の拠点として多くの僧が行き交い、活発な情報交換の場でもあったことから、称念寺と良好な関係であった光秀も幅広い知識を得ることが出来たと言われています。経済的に生活が苦しいなか、のちの足利義昭、細川藤孝との関係づくり、信長からの抜擢など明智光秀の活躍を思えば、越前で過ごした10年間は決して無駄ではなく、光秀を飛躍させる重要な期間であったとされます。

明智光秀の暮らしぶりと黒髪伝説

 牢人となって越前へ来たあと、暮しは貧しいながらも称念寺門前に寺子屋を開いただけでなく、病人の薬を調合し治療を行っていたそうです。その暮しぶりを伝え聞いた松尾芭蕉は句を残し「月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ」、称念寺の境内に句碑が建っています。光秀公は寺子屋を開きながら知識を深め、越前の戦国大名、朝倉氏に仕える機会を窺っていました。そんな折、朝倉氏の家臣と連歌会を催す機会を称念寺の住職が設けてくれました。連歌会は秀光公の知識を披露する絶好の機会ですが、十分なお金がありませんでした。しかし妻の煕子はこの機会を逃しませんでした。なんと自慢の黒髪を売ってお金を作ったのです。その甲斐あり、連歌会は大成功。秀光公の朝倉氏への道が開けたと言われています。煕子の献身により一層深まった夫婦愛と共に夢を追う夫婦の絆は、「黒髪伝説」として語り継がれました

一乗谷での生活

 福井市の一乗谷には光秀の屋敷跡は見つかっていませんが、一乗谷から山越しに約3、5km、現在の福井市東大味町に明智光秀の屋敷跡と伝承される土地があり、越前での滞在の最後の短い期間は、ここでに妻子と住み、娘、明智玉子(細川ガラシャ)も誕生したと云われています。称念寺から東大味へ移転し、東大味から朝倉街道を通って一乗谷に通っていた頃が、朝倉の家臣でありながら、足利義昭の近臣として行動、細川藤考(幽斎)に出会い家臣となり、あとに足利義昭、織田信長に仕えるようになった契機だったかも知れません。

明智光秀と妻、煕子の夫婦愛

 光秀公の妻、煕子は、嫁入り前に疱瘡という病気にかかっていました。幸い治ったものの、煕子の顔には醜い痕が残ってしまったそうです。煕子の親は、名門である明智家の嫁に醜い痕があっては申し訳ないと、瓜二つの妹を変わりに嫁がせようと決めました。しかし光秀公は妹であることをすぐ見抜き、煕子の実家に使者を送りこう告げます。「煕子さんが、疱瘡にかかったとの噂は聞いています。ですが何も気にしないで、どうかお嫁に来て下さい」。こうして煕子は無事に光秀公の元に嫁入りしたのです。秀光公は生涯、側室を持たず煕子をただ一人の妻として愛しました。秀光公と煕子は、お互いを大切に思い、愛し合ったことがわかります。

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