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一乗谷散策 一乗谷朝倉氏遺跡

〒910-2153 福井県福井市城戸ノ内(きどのうち)町

朝倉氏遺跡保存会 TEL 0776−41−2330 

戦国時代へタイムスリップ。のどかな自然と歴史散策。

 

 戦国時代には、およそ一万人もの人がにぎやかに暮らし、戦国大名朝倉氏の大城下町だった一乗谷。当時は京都から公家や文化人を迎え華やかな文化を開花させていました。しかし1573年、織田信長の越前侵攻により一乗谷は灰塵(かいじ ん)に帰し、越前の中心が現福井市の北の庄に移ったことで一乗谷の里は人里遠く隔絶されました。 朝倉氏遺跡は町並みの跡、庭園の保存状態が良好で多くの出土品も現れ、 歴史的価値が高まりました。

一乗谷朝倉氏遺跡の画像

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朝倉義景と一乗谷

 越前の戦国大名、朝倉義景は有名な織田信長や武田信玄、上杉謙信と同じ時代に活躍した戦国大名で、近隣諸国から一目置かれる存在でした。本拠地、一乗谷は当時有数の城下町を持ち、多くの人で賑わい交易によってもたらされた珍しい品々が取引されていました。足利義昭が朝倉を頼ったのも、その実力を知っていたからこそです。将軍の弟、足利義昭が朝倉を頼って越前に来た時、義景は義昭をもてなしますが、ともに上洛する様子はありませんでした。待ちくたびれた義昭(一乗谷での滞在は9ヶ月)は、織田信長とともに上洛、室町幕府15代将軍となります。その後、義景は急速に力を強めた織田信長を、近江の浅井長政とともに追い詰めますが、いいところで引き上げてしまいます。ついには近江からの退却時に信長率いる織田軍にさんざんにやられてしまい、1573年、そのまま攻め入られて朝倉家は滅亡してしまいます。
 一乗谷は織田信長によって焼き払われ、長く土に埋もれていましたが、近年本格的な発掘調査が行われ、当時の様子が判ってきました。当主、義景の館をはじめ、家臣の屋敷や商人の町の跡が発見され、それをもとに復元された建物を見て周れば、戦国時代の城下町がどのような感じだったのかよく判ります。現代に蘇った幻の城下町、朝倉氏の一乗谷での優雅な時の流れを一乗谷朝倉氏遺跡で感じてみてください。
 一乗谷朝倉氏遺跡は、当時の建物や暮しの様子を復元した復原町並を中心に、下城戸から上城戸にかけての住居跡を残す平面町並、復原町並から一乗谷川を渡ったところにある唐門から入る朝倉氏の居館跡、朝倉館、朝倉館から一段高い場所にある湯殿跡、義景の母の屋敷跡と伝わる中の御殿、一乗谷最大級の庭園があり義景の妻が住んだと伝わる諏訪館跡、朝倉氏の子女の尼寺でここにも庭園が残る南陽寺跡などをゆっくり歩いて見学すると約2時間くらいかかります。美しい山々の緑に囲まれた谷間の風景は、お天気が良ければ最高の散策コースにもなっています。朝倉氏遺跡の中心から少しだけ外れますが、上城戸の外側には足利義昭の御所跡も見学出来ます。また三の丸跡、千畳敷跡、宿直跡などが残る一乗谷城へは、復原町並から約7、5km離れた美山林道途中にある三万谷ルートの登山口(駐車場有)から山歩きする方法が最短ですが、この場合は登山シューズ、熊避け鈴、虫除けスプレーなどの持参をお奨めします。

 《足利義昭の来越と上洛》 1565年(永禄8年)、時の将軍・足利義輝が、「松永久通」(まつながひさみち)と「三好三人衆」らにより京都で暗殺されます。追手が来ることを恐れた足利義輝の弟、足利義昭は、近江国(現在の滋賀県)や若狭国(現在の福井県西部)へ逃亡した末に、朝倉義景を頼って越前国までやって来ます。 この時、朝倉義景は将軍足利義昭を華やかにもてなしますが、優柔不断な性格でもあった義景を頼むに足らずと考えた義昭は、当時、朝倉氏に身を寄せていた明智光秀の手ほどきにより美濃の織田信長のもとへ去ります。一乗谷滞在はわずか9ヶ月でした。そして早くも九月、将軍足利義昭を奉じて上洛した信長は義景にも上洛を促してきたが、義景はこれに応じなかったため、朝倉氏と織田氏との宿命的な対立が始まりました。

 《柴田勝家による北の庄城建設》 朝倉家滅亡後、織田信長より越前の「多分」(大部分)の支配を預けられた柴田勝家の早急に取り組むべきおもな課題としては、軍事力の強化という恒常的な課題のほか、信長の徹底した一向一揆討滅によって荒廃した国内状態の復興、国内の武士や寺社への知行分の安堵と宛行い、新たな本拠地としての北の庄城とその城下町の建設でした。そのため柴田勝家は一乗谷を放棄し新たに北の庄城(現福井市中心部)を築き、江戸時代の福井藩もそれを踏襲した為、一乗谷はほとんど開発が行われず、奇跡的に遺跡として残されました。

一乗谷朝倉氏遺跡博物館 (2022年10月1日開館)

 一乗谷朝倉氏遺跡博物館は、当時の戦国城下町の全体像や歴史的価値を楽しみながら学べる博物館です。朝倉義景が暮らした朝倉館の一部の原寸再現、城下町の街並みの巨大ジオラマ、石敷遺構の露出展示、遺跡発掘に至るまでの歴史等を見学出来ます。また朝倉氏遺跡博物館と一乗谷朝倉氏遺跡をピストン運行する無料バスの他に、朝倉氏遺跡博物館〜一乗谷朝倉氏遺跡〜一乗滝〜明智神社などを無料で周回する周遊バスの発着場もあります。

一乗谷朝倉氏遺跡博物館 TEL0776-41-7700
開館時間 9:00〜17:00(入館は16:30まで) 休館日 毎週月曜日と年末年始
基本展示観覧料 大人700円、高校生400円、小中学生200円

一乗谷城 三万谷ルート

朝倉氏遺跡の英林塚から一乗城山へ直接登るルートは上りがきつく時間もかかりますが、美山林道の途中から徒歩で登る三万谷ルートは、その他の英林塚ルート、馬出ルート、下城戸ルートなどのルートに比べ短時間の山歩きで、三の丸跡、千畳敷跡、宿直跡へ登れます。 一乗谷朝倉氏遺跡から福井市田尻町にある美山林道入り口までが約4、2km、美山林道入り口から三万谷ルート駐車場までが約3、2kmで、朝倉氏遺跡から自家用車で約30分の位置にあります。駐車場スペースは普通車約5台分くらいの広さしかありません。

交通のご案内

北陸自動車道福井ICから朝倉氏遺跡まで、国道158号線の天神交差点を経由して約7、3q

北陸自動車道福井ICから朝倉氏遺跡博物館まで、国道158号線の天神交差点を経由して約5q

JR福井駅から朝倉氏遺跡まで、北陸自動車道福井ICを経由して約11、5q ※路線バスあり

JR福井駅から朝倉氏遺跡博物館まで、北陸自動車道福井ICを経由して約9、3q ※路線バスあり

JR越美北線の一乗谷駅から朝倉氏遺跡博物館まで徒歩2分 ※ダイヤが少ないため乗降注意

JR越美北線の一乗谷駅から朝倉氏遺跡まで約2q ※朝倉氏遺跡博物館よりシャトルバス有

朝倉氏遺跡から一乗滝まで約3、2q、明智神社まで約3、7q

朝倉氏遺跡から林道美山線入り口まで約4、2q、林道入口から三万谷ルート駐車場まで約3、2q

一乗滝から越前市の小次郎の里公園まで、鯖江市河和田のうるし会館を経由してで約12、7q

朝倉氏遺跡から永平寺まで、美山町内の越前高田駅踏切を経由する国道364号線で約10、5q

朝倉氏遺跡から大野市の越前大野城まで、国道158号線天神交差点〜美山を経由してで約24、5q

朝倉氏遺跡から鯖江市河和田のうるし会館まで、浄教寺〜金谷トンネルを経由してで約7、7q

鯖江ICから朝倉氏遺跡まで、うるし会館〜金谷トンネル〜浄教寺を経由してで約14、8q

明智神社 (朝倉氏遺跡より約4km、車で約8分)

 明智光秀が越前に身を寄せていた最後の頃に住んでいたと伝承されている東大味の集落の屋敷跡に村民らが建てた神社。朝倉氏滅亡後に起きた一向一揆討伐のとき、過去に住人たちから世話になっていた光秀が、柴田勝家、柴田勝定らに出した東大味の知行を保証させる安堵状のおかげで村が守られたと語り継がれ、この神社が建てられたようです。

一乗滝 (朝倉氏遺跡より約3、7km、車で約7分)

 剣豪・佐々木小次郎の秘技「燕返し」の技は、この滝であみだされたといわれています。夏は冷涼な避暑地として、秋は紅葉の美しい場所として訪れる人を楽しませてくれます。

朝倉氏遺跡では季節ごとにいろんなイベントが開催されています

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

朝倉氏遺跡

一乗滝

 朝倉氏遺跡復原町並 利用概要

  開館時間 AM9:00〜PM5:00 (最終入場16時30分)
 
入場料金 大人 330円
  ※ 団体様大人20人以上は割引有り

   満70才以上(証明書必要)、中学生以下、障害者は無料。
   休館日 12月28日〜1月4日まで

一乗谷朝倉氏遺跡 福井県福井市城戸ノ内町
管理事務所 TEL 0776-41-2173

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